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●遠田のかわず その2

石垣
蛙がいる田圃の石垣

5月の初め頃は住まいの窓を開けると会話が妨げられるほどだった蛙の声が、6月初めにかけてはだんだん控えめになっていき、梅雨に入って再び元気になってきました。

南さんは、「死に近き、母に添い寝のしんしんと、遠田のかわず天にきこゆる」を写真で撮れないかといいます。
漆黒の田圃に蛙の大合唱が天高く星空に向けて響き渡るイメージだそうです。

5月の初め頃は、一応星空も見えましたが、天高いと言えるほどのものは。。。
それにもまして今は梅雨、たとえ晴れていても天高い星空なんか見えるわけがありません。


さっきその大合唱を聞きながら住まいの近くを歩いてきました。
私としては、蛙の大合唱は曇り空にこそふさわしいと思うのですが。

しかし、晴れていようが曇っていようが、そもそも蛙の大合唱をカメラで捉えられるものか?

即物的に蛙そのものを撮影してもしかたないと思いますし、蛙を想像させる何かを撮るしか方法はないはず。

私としては、真っ昼間でもコンクリート製でないあぜ道や水路を見れば、夕方から聞こえるであろう蛙の大合唱を想像できますが、これを万人に期待するのは無理があると思います。
さあ、どうするか。

「死に近き、母に添い寝のしんしんと、遠田のかわず天にきこゆる」

これを読んだ妻は、美しい詩だと言いました。

なるほど、人はいずれは最後の時をむかえるもの。
もし、このように最後の時を過ごせるとしたら、母親も子供も幸せだと言えるかもしれないですね。

おたまじゃくし
おたまじゃくし

コメント

 斎藤茂吉の歌ですね。
 実家のお母さんが死の床にあり、山形に帰った時の歌ですが医師であった茂吉にはお母さんの命の時間がもう残り少ないということがわかっていたのでしょうね。

http://www10.ocn.ne.jp/~awjuno/sub356.html

 一昨日花畑に小さなアマガエルが葉っぱの上に止まっていました。夜に激しい雨が降り、あのカエルは激しい雨水に流されていないか心配になりました。
 今日も小さなアマガエルが一匹いたのでどうやら無事だったようです。

一週間くらい前のことですが、朝起きると庭に出るドアの取っ手に、雨蛙が陣取ってました。
取っ手をひねってドアを開けても逃げようとせず、さすがに夕方にはいなくなってましたが、翌日も同じ場所に座っているのを見つけてびっくりしました。

 私にとって、「蛙」が象徴するものは、(今も昔も変わらぬ)自然であり、何もかもを受け入れ、暖かく包み込む母です。
 親が子を思う気持ち、子が親を思う気持ちは、どこにいようが、いつであろうが、変わらない、あの蛙の鳴き声が変わらないように。
 茂吉はどのような気持ちでこの詩を書いたのでしょう。もし、茂吉が写真家だったら、どんな写真を撮っていたのでしょう。情景だけにとらわれては、茂吉の伝えたかったものが、見過ごされてしまうような、そんな気がしました。

母を亡くすことは、もちろん悲しいだろうけど、茂吉はその事を嘆くことなく受け入れてこの詩を書いたのだと思います。
私が表現したいのは、茂吉の心をそのように動かした情景です。
物理的に音量を測定すれば大音量の蛙の声が、人の耳には静かに、天に吸い込まれるように響き渡っていたであろう田園の情景。それが今も存在することです。

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